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大震災から半年そして911テロから10年/To remember the day of Sept.11,2001

今年の9月11日にはなんて多くのひとの思いが込められていることだろう。3月11日14時46分に起きた東日本大震災から半年、2001年9月11日から10年。被害はもちろん東日本大震災のほうが甚大で未だにその被害の全貌すらわかっていない。現地はもちろんのこと首都圏近郊でも余震が続いている(今も起きた)。福島原発の制御も未だかなっていない。いつ収束するかも全くわかっていない。被災者の方がたのためにじぶんのできることは余りにも些少で、でもどんなにささやかなことでも長く続けていけば少しはイミが出てくるかもしれないと思っている。
 
そしてニューヨークのWTCサイトで行われる追悼式典がまもなく始まる。現地時間は今、2011年9月11日午前6時半前後。10年前のこの時間にいつもと同じ朝を迎えていた多くのひとたち。数時間後の8:46にあんな惨劇が起きるなんて誰も思っていなかっただろう。ごく少数を除いて。
 
アメリ東海岸の秋はとても美しい。8月の末には暑かった夏の気配も去り、9月のレイバーデイの次の日には子ども達の学校の新学期が始まる。一年中で一番空が美しく、空気がさわやかになる、そんな季節だ。
 
10年前の9月11日、私たちが住んでいたワシントンDC郊外でも朝から素晴らしい青空が広がっていた。雲ひとつなくて、空気がひんやりして気持ちの良い朝。「Beautiful Morning, isn`t it?」と誰もがにこにこしているそんな日。いつもどおり車で20分ほどのところにある学校に子どもを送り届け、家に帰ってきた。この日は国防総省ペンタゴン)に取材に行く予定だった夫の仕事が前日にキャンセルになったので、ひさしぶりにゆっくりと二人で朝食をとっていた。「今日は本当に気持ちのいい朝だね。ニュースみたら犬と一緒にさんぽに行こう。」と話しながらTVジャパンにチャンネルを合わせた。朝9時に放送される日本時間夜22時のNHKニュース番組を見るために。
 
でもそこには奇妙な光景が映っていた。見慣れたワールドトレードセンターのビルから煙が出ている映像。ヘリコプターからの空撮だ。解説しているのはNY支局の記者。でも日本からのMCの質問に要領を得ない答えを返し続けてている。それもそのはず。どうみても遠くから撮影している。WTCに近づけていない。眼の前で何が起こっているのか理解できていない。
 
そうこうしているうちに信じられないことが起きた。飛行機がもうひとつのWTC南棟に突っ込んできて爆発炎上したのだ。呆然としながら画面を見つめていた。あの辺りの階には日本の会社のオフィスもあったはず。行ったことがある。そしてチャンネルをCNNに変えた。今度はもっと信じ難い光景が映っていた。あのペンタゴン国防総省)に飛行機が突っ込んで同じように爆発炎上していた。これ本当にペンタゴン?じぶんの眼が見ている光景が信じられなかったが、でも現実だった。WTCとペンタゴン。大国アメリカの威信を象徴するふたつの建造物へのアタック。
 
「テロだ・・。」夫は急いで着替えを始め、同時に携帯が鳴った。「COME ! 今すぐ!」
 
ワシントン中心部にあるオフィスには地下鉄で通っていたので急いで駅まで送っていった。安全できれいで正確な、アメリカにしては大変珍しいワシントンのメトロ。ストップすることなど殆どない通勤の重要な足が既に運行をやめていた。「何が起きたの?」とクラークに聞いたら「わからない。でもどうやら爆弾が仕掛けられたらしい。全てのラインの運行がストップしていて復旧の見込みはない」との答え(*後日ガセであったことが判明)。
 
仕方がないので車でDC中心部のオフィスまで送ることにしたが、ラジオからは現場が混乱しまくっているとしか思えないニュースが次々と流れている。どうやら大変なことが起きたらしい、それだけは確信できた。
 
郊外の自宅からDCのオフィスまで行くときは必ずMasachussetts Ave.を通る。ここは世界に冠たる大使館通りだ。各国の贅をつくした(としか思えない)大使館と公邸がずらりと並ぶ、豪奢で静かな通りとして知られている。確か副大統領公邸もあったはずだ。人通りもそう多くない。この日も美しい青空に各国の国旗が翻っていた。でもここでも信じられない光景が拡がっていた。通りのワンブロックごとにマシンガンを構えた兵士の姿があったのだ。
 
アタマが混乱した。「なんでMas.Ave.に兵士がいるわけ?それもこんなにたくさん!銃口こっち向いてるよね。」 
 
その頃になると今起きていることがラジオで実況されてきた。WTCとペンタゴンジェット機が突っ込んだこと、レスキュー隊が救出に向かっていること、 ビルからひとびとが続々と避難してきていること。非常事態が宣言されたこと、etc,etc.
 
オフィスの前で夫を降ろした。「たぶん数日は帰れないだろう。また連絡するけど。」ワシントン市内は既に混乱の様相を呈していた。報道関係者が目立つ。オフィスビルからたくさんの人々が通りに出てきていた。携帯片手に叫んでいるひと、泣いているひともいた。
 
「今、現在70機の飛行機が所在不明になっている。」「ホワイトハウスとコングレス(議事堂)が攻撃のターゲットにされている情報がある。今すぐ市内から避難してください。」「ワシントンDC上空は飛行禁止。以後、全ての飛行機を撃墜する」「全米中の上空を飛行禁止にする。今、上空にいる飛行機は今すぐ最寄の空港に着陸すること」
 
ラジオからは次々とニュースが流れてくる。「これって現実なの?」じぶんの耳も信じられない。目の前には少しでもワシントン市内から離れようと血相変えて走るひとびと。大渋滞で車は全く動かない。そして最も信じられなかったのが「WTCビルがたった今、崩壊(Collapse)しました」というニュース。
 
「Collapseって粉々になるってことだよね。どういうこと?そんなことあるわけないじゃない。WTCだし。」 
 
でも夫からの電話が入り、それが真実だということがわかった。「局のフィードで今見てる。WTCが崩れた。たぶんもうひとつもダメだ。まだ何千人も残っているのに。ペンタゴンもいつもタクシー拾ってるところに飛行機が突っ込んでる。今日行ってたらやばかったな。早くDC市内から離れたほうがいい。所在不明の飛行機にアタックされるという情報が入ってる。」
 
でも車は全く動かなかった。通りはひとで溢れている。誰もがDC市内から逃げようとしている。ホワイトハウスが狙われている?コングレスも?Kはこれからホワイトハウス前で取材に入るって言ってたよね。攻撃されたら100%巻き込まれるんじゃ・・。それに今、ここに飛行機が突っ込んできたら私も死ぬな。車捨てて歩いて逃げるべき?いやそんなことしたら渋滞がより激しくなってしまう。
 
などと考えるうちに胸が苦しくなり、冷たい汗が出てきた。一刻も早く子どもを迎えに行きたかったが、でもどうにもならない。普段ならDC市内から15分もあれば着くのに2時間近くかかってやっと学校に着くとこちらも厳戒態勢になっていた。子どもが通ってたのは少人数の私立校で保護者と先生の距離が近いフレンドリーな学校だったが保護者は一切立ち入り禁止になっていた。スタッフもまるで他人のようによそよそしい。まず受付で子どもの名前を言ってIDを見せる。先生がひとりづつ子どもを連れてくる、子ども自身が迎えにきた人間を保護者であることを確認しない限り絶対に渡さない、という厳戒態勢(コードRed)が適用されていた。
 
やっと家に着いて、TVニュースを見た。凄惨な映像がこれでもかと溢れていた。震撼した。足下がぐらりとゆれてソファに座り込んだまま数時間動けなかった。たった10日に日本から来た家族を連れて行ったWTC。余りに見慣れた光景がこんな形で崩壊していることが本当に信じられなかった。あの瓦礫の下にはたった3時間前に元気だったひとがたくさん埋まっているなんて、為すすべもなくWTC80数階から次々と飛び降りるひとを見ることになるなんていったい誰が想像できただろう。
 
翌日は子どもの学校が休みだった。でも3日目には行った。トラウマをできるだけ残さないように自分が目撃したことを全て絵に描かせる、という方法も、このような非常事態下ではできるだけ早く平常時に戻ることを第一に目指す、という発想も初めて知った。「被害者のために何をしたらいいかわからない」という私にくれた友だちのアドバイス。「今すぐ献血に行きましょう。そこであなたの思いを伝えることができる。」彼女と一緒に出かけた献血場所には同じ思いをもつひとの長蛇の列ができていた。
 
あの日の後しばらくの間、街に多くのキャンドルが灯された。理不尽な暴力で命を失ったひとたちに対する哀悼の意。後日知ることになったペンシルヴァニア州に墜落した飛行機の中でテロリストに立ち向かった人びと
への賞賛の意。そして自らの危険をかえりみることなく人命救助に向かった消防士や警察官への敬意。あのときどこにいっても灯っていたキャンドルにはそんな思いが痛いほどこもっていた。
 
2001年9月11日、この日に起きたテロを機に世界は確実にその様相を変えた。もうあの日より前の世界には戻れない。 平和で静かなMas.Ave.が一瞬にして兵士がマシンガンを構える場に変わったように、世界のあちこちがその姿を変えた。