今日も明日もJOJさんとか色々と

ジョン・オーウェン=ジョーンズさんをLove&Watchしてます。その他のネタも多し。

銀河劇場「スリル・ミー」②/舞台レポにならなくてどーもすみません

そうなんですよー。私の場合見た舞台の「レポート」はできないのです。特にこれほどのめりこんで見てしまうとマジメにむり。もしかしてそういうのを期待してこんなとこまで見に来てくれてる方々がおられると思うとほんと申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんねー。私が書けるのは極めて個人的な、見た舞台と自分との関わりというかそういうもんだけなんです。だから思考もあちこちにぶっ飛びますが許してくださいね!。

まあとにかく「スリル・ミー」

公式サイトのストーリー紹介はこちら:http://www.m-tmjp.com/category/1596969.html


このミュージカルのもとになったレオポルド&ローブ事件は当時19才と18才の学生によるもので、その後の司法判断にも影響を与えた有名な事件なんで解説本もいっぱい出てます。でもこのミュージカルはあくまでもそこからインスピレーションをもらっただけでその事件そのものを綿密に描いてるわけじゃないです。だからこそ色んな演出が可能になるし、色んな感想をあれこれ楽しくトークしたりできるわけですが

「私」と「彼」は実際に裕福なユダヤ人ファミリーの出身であるわけだけど、私は(マノンねw)どちらかというとWASP的なバックグラウンドを舞台ではイメージしてました。でも昨日「Contract with Blood(血判を伴う契約書)」の存在意義を念頭において見ていたらやっぱり「ユダヤ的なるもの」はありましたね。曰く

「契約書至上主義」(by 渡部昇一先生)


「血のつながりの重要性」

ですね。だからこそ契約書に血が必要だったわけだ。そして彼らはその契約書で「現世=現実の世界」に結びつけられていたはず。じゃないと彼らが求める「スリル」によって向こうの世界(=死の世界)に行ってしまってただろうから。彼らはその契約書によって生と死の狭間に「結界」をつくっていたんだろうなあ、と昨日の舞台見ながら思ってました。特に「私」は「The End」を望んでいるのがとってもよくわかった。自己破壊はできないから、他者から破壊して欲しい、お願い!ってかんじ?

物語では放火やら殺人やらが語られてたけど、でもそういうのに執着する「へんなやつ」は古今東西を問わず存在していたわけで特に珍しいわけじゃない。いや一般ワールドではそりゃ珍しいけど犯罪じんワールドでは珍しくない。

彼らがやばかったのは「スリル=その生命を担保にいれること」を強烈に求めていたから。今の時代ならもっとやばいことになるよ。1920年代でヨカッタ。あ、でも彼らシカゴだったかww

あと二人が傾倒していたニーチェの超人思想ね。これもその欲求をAccerelateしてたはず。「ここじゃないどこか」に行きたかった二人。その「どこか」は現世じゃなかったはず。超世界主義?

でもJewish Momに大事に育てられて裕福なユダヤ人社会(これはどちらもWASPに置き換えられる)からしょせん抜け出すことはできない。当然だよね。キホン的にコドモなんだからww。だからこそああいう結末になるわけですが。

ユダヤ人社会で思い出したけどこれも普通のユダヤ人と所謂オーソドックスジュー(Orthodox Jews)のひとたちはかなり違う。その思想もライフスタイルも。

とここまできたところで仕事の時間だ(>_<)。また後で書こうっと。

付け足します。但しメモ書き程度。スマンww

「私」は「彼」に支配されているように見える。二人の立ち位置もそうなっている。「彼」がほぼ全編に渡って「私」の上にいるようになっている。彼は階段の上に上がる。私は途中までしか上がらない。しかし幾つかのシーンで「私」が「彼」の上に位置していることがある。

ラストシーン、私と彼は向き合っている。ここで位置関係がイコールになる?

「杯にまともに酒も注げない」私がとった方法が神との契約を結ぶこと。

超人になるということは「ここではないどこか」へ行くこと。二人で。火は焼尽すことができる。自分を取り巻くいろんなものも。自分自身ですら。「彼」が望んでいたのは全てを焼尽すことだったのでは?で、「私」は一緒に焼尽されたかったとか・・怖過ぎw

「ゲームは楽しい」との言。まあね、ゲームのうちはね。でも知らないうちにゲームは終わってるんだよ。彼ら二人ともわかってと思うけど