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ジョン・オーウェン=ジョーンズさんをLove&Watchしてます。その他のネタも多し。

「Love Never Dies」を語ってみる①/私はこの作品が大好きです

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で、「Love Never Dies」の話ですが、最初にこの作品が製作されることを知ったとき「え"~まじで?」と思った。おそらく多くの「オペラ座の怪人」ファンもそう思ったことだろう。あのストーリーの続編ってどういうこと?そもそも続編などつくる必要などまるでないじゃないか、と。それもベースになるのが「マンハッタンの怪人」と聞けばブーイングの嵐に合うのはもう火を見るより明らかだったはずだ。
 
オペラ座ファンの中ではかなりの例外だと思うが、実は私はこの小説キライではない。なぜかというとコニーアイランドそして大恐慌期以前のニューヨークが舞台になっていたからだ。コニーアイランドはマンハッタンから地下鉄で40分くらいのところにある遊園地で近くには泳げるというか水遊びができるビーチもある。私がNYにいた頃はロシア人が多く住んでいたので友だちと一緒に当地のグローサリーにロシアのお惣菜?を買いにいったことがある(あ、キャビアもね。マンハッタンで買うより断然安かったから)。日本ではホットドッグの早食い競争が行われることで有名なくらいで全く特記事項のない場所であるし、今となっては遊園地としての魅力も大してない。米東海岸の都市によくある「かつての繁栄の軌跡がかろうじて残っている場所」のひとつと言えるだろう。
 
でも私はこの場所が好きだった。昔、MOMAだったかリンカーンセンターだったかはっきり覚えてないのだが附設のライブラリーで1900年代初期と思しき時代のコニーアイランドの映像資料を見たことがあって、それにとっても魅せられていたからだ。たとえ今の姿がどうあれ、あの場所には栄光の過去が透けて見えるようなそんな気がしていたからだ。だから「Love Never Dies」にコニーがどう描かれるのか、今や勝利者となったエリック/ファントムがパークアヴェニューに立つ高層ビルのペントハウスからマンハッタンの街をどのように見下ろすのか、実のところとても楽しみにしていたのだ。まあ、結果的には何もなかったけどね、この辺りの演出は。
 
2010年3月にWEアデルフィ劇場で開幕したLND。作詞家も演出家も著名なスタッフを配し、ALWの大のお気に入りのRamin、シエラをキャスティング。入念な準備を以って進めていた(と思われる)のにプレビューは散々な結果になり、急遽あちこちで手直しが行われたという。2010年は子どもの受験があったのと仕事が立て込んでいたこともあって、観に行けないことはわかっていたけど、LNDに関する記事やレビューには眼を通していた。CDも聞いた。そして思った。「LNDってここまで言われるほどヒドイ作品なのかしら?」と。2011年4月になってやっと生舞台を観て思った。「全然そんなことはない!これは素晴らしい作品だ!」と。
 
生舞台を観る前から「Love Never Dies」のキモになっているのはなんといっても「The Beauty Underneath」だと思っていた。LNDにはタイトル曲を始めとしてそれはそれは良い楽曲がたくさん揃っていて、たとえALWさんが変人だろうが、我儘だろうが許す!とかまで思うくらいのレヴェルだが、やっぱりこの曲がLNDの核だ。
 
「The Beauty Underneath」=その下に潜む美の存在
 
「その」が何を指すか、ファントムの場合でいけば仮面に隠された醜い顔のことだろう。「オペラ座の怪人」でもクリスに仮面を剥がされたファントムがゲキ怒りながら叫んでいた。「この醜い姿で美を夢見ている」と。
彼ほどの美的感覚、いやこれは言葉が適切でないか。「美」に執着し、究極の「美」を生み出すことのできる力と才能を神様からのギフトとして与えられたのに、その本人自体が「美」から果てしなく遠い場所に置かれているというその事実、ザンコクな現実。(ALW氏のこともちょっと思い浮かべたりするがそれはまたべつの話)
 
そして私はフェリーニの映画を思い出す。「美」に対する執着の高さでは抜きん出ていたイタリアの映画監督だ。彼の作品には所謂「フリークス」がたくさん登場している。そして明らかに彼らを愛している。フェリーニは彼らの中にある「美」すなわち「The Beauty Underneath」に魅せられている。そんな風に思えるカットがいくつもある。
 
ふつうと違う「異形」のものたちがフリークスだとすれば例えば身体的な眼に見える「異形」と共に趣味・趣向の「異形」も含まれるだろう。ゲイ、レズビアン、性倒錯者、ドラッグクイーン,etc. etc..。1960年代のヒッピームーヴメントの中では体制に反抗する自らのアイデンティを「フリークス」と称した一団がいたという。またある時期のヨーロッパの社会ではこういった人々「フリークス」が別の世界の住人、禁じられた世界の住人として残酷な扱いを受けていた反面、ある種聖なる存在として扱われていたこともあったという。で、こんな図式が簡単にイメージできる。
 
聖なる存在としてのフリーク=ファントム
 
「The Beauty Underneath」の曲に最も強く感じるのは聖なるフリークスとしてのファントムのセクシュアリティだ。Raminという極上の表現者を得たこともあるが、私はこの曲を60才を超えている、オマケに癌まで患っているALWさんが作ったことに本当に驚く。ALWさん自身がファントムに自分の影を投影してはいないか、そんなことまで考える。そしてこの曲はとても強くSEXのイメージを喚起してくる。かなり具体的に、感触と皮膚感をも伴って。もちろん極上の、最高レベルの陶酔感も一緒に、だ。この年まで生きていればそういった経験は何度かある。誰にでももちろんあるだろう。でもこういった感覚はふつう自分の中の引き出しのいちばん奥にしまって鍵をかけているので表には出てこない。でもTBUはやすやすと引っ張ってくるのだ。この曲を耳にした途端、あの陶酔感と私を隔てていたもの全てが容易に破壊されてしまう。それだけではない。Raminという歌い手が表現する聖なるフリーク=ファントムは他にも様々なイメージを容赦なく与えてくる。(余りにカゲキなのと反社会的?な内容になるのででここでは書けないけど)
 
舞台でこの曲が演じられるとき、ファントム、グスタフ以外に重要な人物がファントムの側にいる。半鳥半人のフレックだ。CDを聞いているときにはわからなかったが、彼女はLNDにおける非常に重要なキャラクターだ。TBUが演じられる時、Raminファントムはフレックの顎を持ち上げ、愛でる?仕草をする(タムは違うやり方だが)。そのときわかった。彼女もファントムと同じ「聖なるフリーク」だということが。メルボルンプロダクションではフレックは小人の俳優が演じていると聞いて合点がいった心地がした。(ほんとうにそうなっているのか確認してみないとならないが。)
 
「Love Never Dies」という作品は身体にあってないお洋服を着せられている、サイズのあってない靴を履かされている、そんな感じがとてもする。怒る方がいたら先にあやまっておくが、そもそも登場人物たちが大変ダークな設定なのに、万人ウケさせるために「報われない愛を巡る不幸な恋人同士のストーリー」にされてしまってるからだ。そもそも「聖なるフリーク=ファントム」はふつうの世界の住人と関わること=(intercourse)は許されなかった存在のはず。それはファントムもよくわかっていた。だから「オペラ座の怪人」ではひとり姿を消すことしかできなかったし、万人も?その結果に納得してたはずだ。 
 
でも「Love Never Dies」は最初からその設定をばっさり変えた。聖なるフリークであるファントムが生きる世界と私達と同じ世界で生きるクリスティーヌをいきなり結びつけてしまったのだ、霊的なイミを持つSEXを媒介として。
このストーリーの違和感はまずそこから始まっている。この設定はそもそも「あり得ない」はずなのだ、ある種の西洋的モラル基準からいけば。だからこそファントムのセクシュアリティを強烈に意識させる「The Beauty Underneath」がこの物語には絶対的に必要な存在になってくる。じゃないと成り立たないのだ。
 
で、今度は別のイメージがアタマをもたげてくる。ワーグナーの紡いだ物語「ワルキューレ」だ。